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更新日:2012年3月8日

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第三代横綱丸山権太左衛門

原文

むかしむかし、中津山の城内という所に銀太夫という若者がいたんだとしゃ。
この若者は、普通の人より並はずれて体格も良く、小さい時から良く家の仕事の手伝いをしていたんだと。十二歳の頃は抜群の体格になり、大した力持ちだったんだと。
秋の稲上げなどには馬に一ぱい稲をつけ、自分も馬につけた位背負って稲上げをしたんだと。
そんなもんだから仕事が、うんとはかどったんだとしゃ。
或る日、母から「銀太夫畑仕事手伝ってけろや」といわれて、母と一しょに畑へ行ったんだど。
あたりが山で、篠竹が畑の方にはってきているので二人で根っこから鎌で刈っていたんだと。
余り力を入れたので鎌の柄が折れてしまったんだと。「これはしまった」と思い、鎌で刈るのをやめて素手で篠竹を握ってスポンスポンと雑草でも抜くようにしてやっていたんだと。母がこれを見て我が子ながら、この怪力に舌を巻いてしまったんだと。
或る時、用足しに涌谷へ行ったんだと。その帰りに小里山で漬物石に手頃のもの(四十K位)を見つけたんだと。御影石のいい石だと思い、銀太夫はいつも行っている近所の山住の家で漬物石が欲しいと言っている事を思い出し「よしこれをお土産に持っていってやんべい」とその石を袂に入れて帰ったんだと。そして家によらずに、先に山住の家に行って「おんつぁん今日なぁ、涌谷さ行った帰りに漬物石にいいのを小里山で見つけたので持って来てけだよ」と言って、袂から片手で無造作に差し出したんだど、山住のおんつぁんがこれを両手で受け取ったんだが、思ったより重かったので、思わず「ドスン」と下に落としてしまったんだどしゃ。
(丸山の袂石は城内の山住家に今でも保存しています)
このようなことがあってからは、銀太夫の力持は近郷近在に鳴りひゞいていたんだと。
十六歳の時、又、涌谷へ用足しに行き、その帰り道、中津山の羽場にある舟つき場にさしかゝると出水のため砂場に打ち上げられた大きな平田舟があったんだと。
水が引いたので、水のある所までその舟を引きずり降ろそうと三十人程の人足が集まって「せいの、せいの」と声をはり上げ力限りやるけれども足場が悪いせいもあって、舟はびくとも動かながったんだと。みんなが見ているうしろの方で銀太夫が見ていると、人足の一人が銀太夫を見つけ「やぁみんな、力持ちの銀太夫さんがいたがら、すけて貰ったらや」と言ったので、「それぁ好都合だ」と言うので、二人ばかり銀太夫のところに来て「どうぞ一つあんたの力でこの舟を引きずり降ろしてけねえべが」としきりに頼んだんだと。人足のみんなも「どうぞ頼みす」と口々に言うので銀太夫は「そんでは一つやってみっか」と引き受けてしまったんだと。
ところが、頼んだ人足の中に意地の悪いのがいて、何やらこそこそと話していたんだと。
「あのなぁ、あの銀太夫さんが力持ちだって言うから一つみんなで試して見んべえや、あの人が舟を押す時、おれ達は反対の方に力を入れて見んべえや」と言うことになったんだと。
銀太夫は、こそこそ言っているのを見て、「ハハンこれは何かあるな」と思ったんだと。そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞ、銀太夫は頭も良かったので、そんなことは知らねえふりをして「いいかみんな舟が動き出したら手をはなしてけろよ、あとは水のあっとこまでおれ一人で押して行くから」と言って舟尾に手をかけ「せいの、せいの」と舟を押して見たんだと。人足共のうちほとんどが自分と反対の方に力を入れているようだと、銀太夫はとっさに思ったので「せいの」と言う時より一呼吸おくれてみんなが力を抜いたあたりに「ううん、ううん」と力を入れるとさしもの大舟もずるずるっと水のある所まで、押しさげられたんだと。
いたずらをたくらんだ者達も、そこに集まって見ていた人達も、今さらながら銀太夫の怪力には驚き、あいた口がふさがらなかったと。
その時の銀太夫は実に七十五人力だったんだとしゃ。
その年の秋、家の稲上げに行ったんだと、一生懸命になって稲を馬の背中さ一杯につけ、自分も馬につけたくらい背負って帰ろうとしたら、直ぐそこまで御領主の殿様の行列が来たんだと、ガサガサと仕事をしていたので、近づくのをさっぱり知らねがったんだと。道は狭いし銀太夫も「これぁ困ったな、どこさもよげどこねえしなぁ」と思い「よしこうすんべい」といきなり馬の四つ足をつかみ馬を稲ぐるみ持ち上げて堀をまたいで殿様に道をあけて、頭をさげてお通し申したんだと。殿様はこのあり様を見て驚いてしまったんだと。
そして、家来に「あの者を召しかかえたいから良きに計え」と言われたんだと。
それから銀太夫は下僕として、お殿様のもとで働くようになったんだとしゃ。
そして銀太夫は十七歳の時殿様のお供をして江戸に登ったんだと、銀太夫は歩くことは、余りずう体が大きいので得手ではねがったんだと。道中では銀太夫の足に合うわらじはどこでも売ってねがったんだと。行列が宿についたら自分で藁を打ち、自分のわらじを毎日二、三足作って持って歩いていたんだと。さすがの銀太夫も歩くことには全くへいこうしてしまったんだと。
それでも何んとかしてようやく江戸つどこさついたんだとしゃ。
殿様は歩くことの苦手な銀太夫を帰りに連れて行くのが気の毒だし体格も良く力持ちだから相撲とりになった方が良さそうだと思い、家来を呼んで銀太夫に相撲とりにならないかと聞かせたんだと。それを聞いた銀太夫は大よろこびして「宜しく頼みす」と言ったので、殿様の口ききで仙台出身の名力士、七ツ森折エ門のもとに弟子入りすることになったんだと。
親方は銀太夫の体格を見て「これは大したもんだあとで必ず大物になるぞ」と思ったんだと。親方から相撲の手は突張りの一手に徹するように教えられたんだと。
二十五歳の時、西の大関丸山権太左衛門とシコ名を改めたんだと。頭の上が瘤の様に盛り上がっていたので姓は丸山、父親が権右衛門だったので権の一字を戴き、名は権太左衛門ということになったんだと。そして突張りの丸山とおそれられるようになったんだと。
身のたけ一九九センチメートル、体重一六六キログラムの筋骨型の力士だったんだと。
それから十三年間の中に二回しか負けたことがねがったんだと。
そして九州の熊本で横綱の免許を受け名実ともに日の下開山第三代横綱丸山権太左衛門は、ここに誕生したんだとしゃ。

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【mp3ファイル/再生時間:8分30秒】

標準語

むかしむかし、中津山の城内という所に銀太夫という若者がいたんだそうな。
この若者は、普通の人より並はずれて体格も良く、小さい時から良く家の仕事の手伝いをしていたそうだ。十二歳の頃には抜群の体格になり、大した力持ちだったそうだ。
秋の稲上げなどには馬にいっぱい稲をつけ、自分も馬につけた位背負って稲上げをしたそうだ。
そんなものだから仕事が、すごくはかどったんだそうな。
或る日、母から「銀太夫畑仕事を手伝ってちょうだい」といわれて、母と一緒に畑へ行ったそうだ。
あたりが山で、篠竹が畑の方にはってきているので二人で根っこから鎌で刈っていたそうだ。
銀太夫は、余り力を入れたので鎌の柄が折れてしまったそうだ。「これはしまった」と思い、鎌で刈るのをやめて素手で篠竹を握ってスポンスポンと雑草でも抜くようにしてやっていたそうだ。母がこれを見て我が子ながら、この怪力に舌を巻いてしまったそうだ。
或る時、用足しに涌谷へ行ったそうだ。その帰りに小里山で漬物石に手頃のもの(四十キロ位)を見つけたそうだ。御影石のいい石だと思い、銀太夫はいつも行っている近所の山住の家で漬物石が欲しいと言っている事を思い出し「よしこれをお土産に持っていってやろう」とその石を袂に入れて帰ったそうだ。そして家に寄らずに、先に山住の家に行って「おじさん今日なぁ、涌谷に行った帰りに漬物石にいいのを小里山で見つけたので持って来てあげたよ」と言って、袂から片手で無造作に差し出したそうだ、山住のおじさんがこれを両手で受け取ったのだが、思ったより重かったので、思わず「ドスン」と下に落としてしまったんだそうな。
(丸山の袂石は城内の山住家に今でも保存しています)
このようなことがあってからは、銀太夫の力持ちは近郷近在に鳴りひびいていたそうだ。
十六歳の時、又、涌谷へ用足しに行き、その帰り道、中津山の羽場にある舟つき場にさしかかると出水のため砂場に打ち上げられた大きな平田舟があったそうだ。
水が引いたので、水のある所までその舟を引きずり降ろそうと三十人程の人足が集まって「せいの、せいの」と声をはり上げ力の限り動かそうとするけれども足場が悪いせいもあって、舟はびくとも動かなかったそうだ。みんなが見ているうしろの方で銀太夫が見ていると、人足の一人が銀太夫を見つけ「やぁみんな、力持ちの銀太夫さんがいたから、手伝って貰ったらどうだ」と言ったので、「それは好都合だ」と言うので、二人ばかり銀太夫のところに来て「どうか一つあんたの力でこの舟を引きずり降ろしてくれないだろうか」としきりに頼んだそうだ。人足のみんなも「どうか頼みます」と口々に言うので銀太夫は「それでは一つやってみるか」と引き受けてしまったそうだ。
ところが、頼んだ人足の中に意地の悪いのがいて、何やらこそこそと話していたそうだ。
「あのなぁ、あの銀太夫さんが力持ちだって言うから一つみんなで試してみようや、あの人が舟を押す時、おれ達は反対の方に力を入れてみよう」ということになったそうだ。
銀太夫は、こそこそ言っているのを見て、「ハハンこれは何かあるな」と思ったそうだ。そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞ、銀太夫は頭も良かったので、そんなことは知らないふりをして「いいかみんな舟が動き出したら手をはなしてくれよ、あとは水のあるところまでおれ一人で押して行くから」と言って舟尾に手をかけ「せいの、せいの」と舟を押してみたそうだ。人足共のうちほとんどが自分と反対の方に力を入れているようだと、銀太夫はとっさに思ったので「せいの」と言う時より一呼吸遅れてみんなが力を抜いたあたりに「ううん、ううん」と力を入れるとさしもの大舟もずるずるっと水のある所まで、押しさげられたそうだ。
いたずらをたくらんだ者達も、そこに集まって見ていた人達も、今さらながら銀太夫の怪力には驚き、あいた口がふさがらなかったそうだ。
その時の銀太夫は実に七十五人力だったんだそうな。
その年の秋、家の稲上げに行ったそうだ、一生懸命になって稲を馬の背中にいっぱいにつけ、自分も馬につけたくらい背負って帰ろうとしたら、すぐそこまで御領主の殿様の行列が来たそうだ、ガサガサと仕事をしていたので、近づくのをさっぱり知らなかったそうだ。道は狭いし銀太夫も「これは困ったな、どこにもよけるところがないしなぁ」と思い「よしこうしよう」といきなり馬の四つ足をつかみ馬を稲ぐるみ持ち上げて堀をまたいで殿様に道をあけて、頭をさげてお通し申したそうだ。殿様はこのあり様を見て驚いてしまったそうだ。
そして、家来に「あの者を召しかかえたいから良きに計え」と言われたそうだ。
それから銀太夫は下僕として、お殿様のもとで働くようになったんだそうな。
そして銀太夫は十七歳の時に殿様のお供をして江戸に登ったそうだ、銀太夫は歩くことは、あまりにずう体が大きいので得手ではなかったそうだ。道中では銀太夫の足に合うわらじはどこにも売っていなかったそうだ。行列が宿についたら自分で藁を打ち、自分のわらじを毎日二、三足作って持って歩いていたそうだ。さすがの銀太夫も歩くことには全く閉口してしまったそうだ。
それでも何とかしてようやく江戸というところについたそうだ。
殿様は歩くことの苦手な銀太夫を帰りに連れて行くのが気の毒だし体格も良く力持ちだから相撲とりになった方が良さそうだと思い、家来を呼んで銀太夫に相撲とりにならないかと聞かせたそうだ。それを聞いた銀太夫は大よろこびして「宜しく頼みます」と言ったので、殿様の口ききで仙台出身の名力士、七ツ森折エ門のもとに弟子入りすることになったそうだ。
親方は銀太夫の体格を見て「これは大したもんだあとで必ず大物になるぞ」と思ったそうだ。親方から相撲の手は突張りの一手に徹するように教えられたそうだ。
二十五歳の時、西の大関丸山権太左衛門とシコ名を改めたそうだ。頭の上が瘤の様に盛り上がっていたので姓は丸山、父親が権右衛門だったので権の一字を戴き、名は権太左衛門ということになったそうだ。そして突張りの丸山とおそれられるようになったそうだ。
身の丈一九九センチメートル、体重一六六キログラムの筋骨型の力士だったそうだ。
それから十三年の中で、二回しか負けたことがなかったそうだ。
そして九州の熊本で横綱の免許を受け名実ともに日の下開山第三代横綱丸山権太左衛門は、ここに誕生したんだそうな。

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