坂上田村麻呂伝説と地名 ➁ 本文へジャンプ

 

 前の記事では南方町、東和町の地名に関する伝説を紹介しました。ここでは迫町、中田町、石越町、米山町、豊里町の事例をみていきたいと思います。

迫町

 迫町域は、北方地区に田村麻呂伝説が多く分布しています。

「三方島(さんぼうじま)」、は、田村麻呂が賊の再起防衛を祈願して飯土井山に三宝荒神を勧請し、元禄年間(16881704)にこの三宝荒神社を遷座したので、三宝が三方に変わって地名になったといわれています。「飯土井(いいどい)」は、田村麻呂が飯土井集落の高台から北(栗原市若柳畑岡)の蝦夷に向かって矢を射たが、遠すぎて届かなかったことに由来するといわれています。

中田町

 中田町域の「小島(おじま)」・「灰塚」は、田村麻呂が兵を同町の長谷山方面に進めた折、賊の勢いが強く小島まで退却したが包囲され、錦旗を奪われる事を警戒し、焼却してその灰を覆って漸く多賀城まで引き上げたことに由来するといわれています。

石越町

田村麻呂に倒された悪路王の目が落ちた「鬼の目」という地名があります。

米山町・豊里町

米山町の「鐘引澤(かねひきざわ)」は「遠田郡中津山村風土記御用書出」にみえ、これによると田村麻呂が大武丸退治の後、同町中津山地区と箟峯(涌谷町)、佐沼(南方町?)に観音堂を建立したとしています。米山町の畑崎・狐崎、豊里町の唐崎も大武丸退治に由来する地名です。

このように地名に関するものだけでも様々な伝説が息づいています。

では、この伝説は史実と考えてよいのでしょうか?残念ながら、例えば、田村麻呂に討伐される悪路王、大武丸などは鬼や鬼神として描かれるなど、物語としての面が色濃い伝説というのが実情です。

ただし、少なくとも江戸時代には登米地方に田村麻呂伝説が存在し、人々にとって身近なものであったことはみとめてよいでしょう。今後は、これらの事例を整理し、寺社縁起も含めて市内の田村麻呂伝説について考えてみたいと思います。

高橋 紘

参考文献

登米市歴史博物館『坂上田村麻呂伝説~東北に息づく田村ガタリ~』2017

 高橋紘「坂上田村麻呂伝説と地名」『登米市歴史博物館 博物館だより』
     23
号 2017