坂上田村麻呂伝説と地名 ① 本文へジャンプ



 坂上田村麻呂は、奈良時代中期から平安時代前期に活躍した武官です。田村麻呂は東北地方に住む蝦夷(えみし)との戦争で活躍したこともあり、東北地方にゆかりの深い人物といえるでしょう。

その田村麻呂に関する伝説が登米地方にはたくさん残っています。令和25月現在で62の事例を確認しています。ここでは、南方町、東和町の地名に関するものを紹介したいと思います。

南方町

南方町域は、市内で最も田村麻呂伝説が多い地域です。

南方にいた大武丸退治のとき、カラスの大群を目印に谷地を抜けて丘の上に旗を立て、後に続く人の目印にした「畑岡」、田村麻呂が宿営したとき、丘に12色の綺麗なつつじが咲きほこっていたので名づけた「十二山」、賊たちが逃げる際に砥石を落した、あるいは田村麻呂が砥石を落した「砥落(とおとし)」などです。

南方町域の田村麻呂伝説は、同町に位置する大嶽山の大武丸退治にまつわるもので、十二山などは江戸時代の安永年間に作成された「栗原郡南方村端郷東郷風土記御用書出」にも確認できます。

東和町

東和町域も田村麻呂伝説が多い地域です。

田村麻呂が川を渡って米谷方面を攻めるとき、服属したものが人柱を作り橋となって渡河を助けたという「鬼橋(おにばし)」、反抗した賊たちが住んでいた「悪戸(あくど)」、田村麻呂が蝦夷を追って現在の相川地区に入ったとき、先に逃れた蝦夷が隠れていた、あるいは降伏したといわれる「鬼伏(おにぶし)」と、田村麻呂伝説と鬼が結びついた地名が確認できます。

 このように2町だけでも様々な伝説があることがわかります。➁では迫町、中田町、石越町、米山町、豊里町の事例を紹介したいと思います。

高橋 紘

参考文献

 登米市歴史博物館『坂上田村麻呂伝説~東北に息づく田村ガタリ~』2017

 高橋紘「坂上田村麻呂伝説と地名」『登米市歴史博物館 博物館だより』
     23
号 2017



         坂上田村麻呂『小学校用歴史』1より  明治21年(1888)

      
               二の矢当神社  登米市東和町相川
  賊が田村麻呂に射られたところで、一説には、田村麻呂を祀るといわれています。