伊達政宗と亘理宗根 本文へジャンプ



 佐沼亘理家の初代・亘理宗根は、出生に謎が多い人物です。同家で作られた系図や仙台藩の記録では、伊達政宗の重臣である茂庭綱元と豊臣秀吉の寵姫・種(種子、香姫、香の前とも)の子供とされています。しかし、大正12年(1923)に刊行された『登米郡史』上巻では、「実は茂庭石見綱元(号了庵)の四男とあるも、(亘理家譜二男となす)仙台藩祖伊達政宗の落胤なりといふ、」と紹介されています。直接的に親子関係を証明する資料はありませんでしたが、伝承や政宗の「宗」の字を拝領していること、政宗代にたびたび加増されていることなどがその根拠だったようです。これ以降、ふたりの親子関係は注目を集めるようになっていきます。

 政宗から宗根に宛てた書状は、令和25月現在、6点となっています。これらの書状を見ていくと、政宗は宗根屋敷の造営に気を配り、屋敷を訪問したりしていました。また、一緒に川狩などもしていました。書状以外では、政宗から拝領したという刀剣類(伝兼延など)が残されています。政宗は折を見て宗根を気にかけていたようです。ただし、親子関係については状況証拠の域をでないものであり、裏付ける資料は見つかっていませんでした。

そのようななか、令和元年(2019)に開催した企画展「亘理宗根没後350年記念 伊達政宗のこどもたち」の準備を進める過程で一通の政宗文書を発見しました。それが、親子関係を証明する可能性があるとして注目された「伊達政宗書状(亘理右近太輔宗宛書状)」です。この史料については「資料紹介」のページに詳しく記載がありますので、合わせてご覧いただきたいと思います。

私個人としては、家臣らも目にするウワ書き部分には、宗根の通称である「亘理右近大夫」を書いているにも関わらず、書状を開かないとみえない宛所には「了庵二番ノ子」と書くあたりに、政宗の面白さを感じます。佐藤憲一氏(前仙台市博物館長)によれば、この書状は宴席で書かれたものとみられるとのことですので、酒に酔った勢いで書いてしまったのかもしれません。

ふたりの親子関係については、今後も調査を進めていこうと思います。

高橋 紘

参考文献

 高橋紘「亘理宗根」『亘理宗根没後350年記念 伊達政宗のこどもたち』
     登米市歴史博物館 2019


               
                      亘理宗根坐像